糸・布・針を読む

自分は縫わないけど、縫ったり織ったりすることを考える・・・読書や調査の記録(基本は自分の勉強メモ)

『べっぴんさん』から手芸を研究してみる(2)

父と姉に刺繍を褒めてもらえず、悔しかったすみれは、明けても暮れても刺繍に励んで過ごす。

腕のいい靴職人の麻田さんが登場する。靴は針と糸で縫い合わせると聞いて、刺繍がうまくなりたいと思っているすみれは、父の高級な靴を解体してしまう。

こういう解体癖は、よくオーディオや機械系が好きな子供の事例を聞くが、刺繍と靴を結びつけるっていうのは、なかなか突飛である。仮に衣服やバッグを解体したならまだわかるものの、靴か…。

解体した靴をなんとかしようと、町場の麻田さんの店まで潔さんと一緒に行く。靴を届けた帰り道、デモにさえぎられて潔と別れてしまい、町場で迷ってしまうすみれ。助けてくれたのは、小野明美。のちに彼女と共に店を立ち上げることになる。

この辺りの描写で、この時期の神戸が海岸線と山手でかなりの階層差があり、その世界が少女の生活においては隔絶していることも示される。すみれの日常にある刺繍やリボンやレースは、麻田が作る靴の世界とはかけ離れている。そこをつなぐのが、すみれのものづくり技術への憧憬ということになるだろうか。

ちなみに、神戸の皮革製品加工には当然歴史があり、それが歴史的な職能集団と深く関わることはドラマでは一切出てこない。

 

すみれは麻田から思いを込めて丁寧にモノづくりをすることを学ぶ。刺繍が上手にできないことを麻田に話し、「だれかて最初からうまくいきません。せやけど思いをこめたら伝わるんです。それが一番大事なことです。上手につくることより、誰がどんな思いをこめてつくるのか、それが一番大事です。そうこうしているうちにうまくなるんです。」

うまいなあ、麻田さん。手芸は下手でもいいから思いを込める、それでも作ればうまくなるって、実はいっぱい矛盾を抱えているテーゼなのに、そう思わせないっぷりが絶妙である。

『べっぴんさん』から手芸を研究してみる(1)

お話は昭和9年、神戸で暮らす主人公坂東すみれが9歳の時から始まる。

ある朝。

「似合う?この前お父様が仕立ててくださったお洋服。」

といって姉ゆりが父に見せるのは、ピンクのワンピース。白い襟には小花の刺繍が施されレースで縁取られており、胸にはピンタック、その周囲には共布のフリル。

「特別に元町の店に、イギリスの生地を持ち込んで作らせたんや。」と自慢げな父。

おっとりしたすみれが着ているのはゆりとおそろいで色違いの若草色のワンピースである。気に入ったか?と父に聞かれて

「なんかな…。」と襟を触りながら言葉を止める。

当然父は「なんや!気に入らんかいなー!特別に作らせたべっぴんやのにー!」と大きな声をあげる。と、「べっぴん」とは「特別に作ったもの」であることがとても説明的に意味付けられている。

神戸港を見下ろす山の手で暮らす少女たち。

彼女たちの服は、刺繍、レース、ピンタック、フリル、リボン…という当時とても贅沢で普段着にはなかなか使えなかった手芸が満載。その服で朝ごはんも学校へも行く。

学校の授業中、入院している母のところへ行くことを妄想中、すみれは机の下で四葉のクローバーが刺繍されたハンカチを触っていた。母親が刺繍したハンカチだろう。

帰宅したすみれは母の裁縫箱を取り出して、刺繍する母の姿を想う。色とりどりの刺繍糸が入っている。すみれは拙い手で夜中まで刺繍をする。白いハンカチに白い百合と紫のすみれが刺繍される。母のところに持っていったら、姉と父に「なんやこれ」と言われ、母親だけが彼女の刺繍をわかってくれる。

手芸って、下手でも心がこもっているという言説と、下手な手芸は一銭にもならん…って言説が両立していて、実はかなり手芸の本質を突いているなあと思ったりするのであった。

「女性とデザイン」

1881年、美術理論家のルイス・F・デイは次のように述べている。

「現代の差し迫った問題の一つは、貧しい女性はどのように生計を立てるのかということである。(中略)美術関係の仕事、特に装飾芸術は彼女たちに開かれていると多くの人々は思っている。」

 ノニ・ガドスデン「女性とデザイン」『アートに生きた女たち』図録、2013年、名古屋ボストン美術館

 

ガドスデンのこのテクストはとても面白かったので簡単に要約しておく。

 

装飾芸術の分野は、いわゆる純粋芸術よりかなり早くから多くの女性に雇用や創造的表現、指導力をもたらしたとされる。19世紀半ばまで、刺繍や陶磁器の絵付け、その他に家庭で行われる手仕事などの装飾芸術は「女性の仕事」と結び付けられていた。

多くのデザイナーが必要になると女性のためのデザイン学校も作られた。女性たちの活躍の場を広げていくという目的ではなかったかもしれないが、デザイン改革運動はこうした促進剤の役割も果たしたことになる。

 

デザイン改革運動は、しばしば産業化の進歩やその結果に対する反動であり、労働時間や環境、家族関係や家庭生活、移民、教育などの問題を含んでいた。改革の精神はアメリカ社会のほぼすべての面に影響を及ぼしたとされる。女性はこうした改革運動のリーダーとなり、特に子供や家族、家庭生活、そして女性自身に関する運動でその中心を担ってきた。

デザイン改革運動には、「機械製品の美学」と「消費者の趣味を改善する」という二つの目的があり、どんな社会的地位にある女性も運動に参加する多様な手段を与えられた。女性デザイナーは、美術界での女性の地位が向上し、機会が得られるよう努めた。女性デザイナーはより多くの社会的、経済的自由を手にし、芸術的目的を主張した。

とはいえ、女性デザイナーがどんな工芸や主題、芸術的試みも社会的反響を気にせず望み通り自由に手掛けられたわけではないが、女性画家や彫刻家よりも学校教育や仕事、芸術活動の支援において多くの機会を得たとされる。

 

・・・という感じで、日本のデザイン史ではほとんど無視されているのだが、デザインとジェンダーの問題は実はとても面白い。現在でもデザイン領域は、女性が活躍している巨大市場である。ただし、その内部において性別役割分業が行われていることも確かで、圧倒的にファッションデザインが女性たちの活躍の場になっている。

この領域の秀逸な先行研究はやはりペニー・スパークだろうか。

パステルカラーの罠―ジェンダーのデザイン史 (りぷらりあ選書)

パステルカラーの罠―ジェンダーのデザイン史 (りぷらりあ選書)

「その裁縫の針は奴隷主たちの良心をちくりと突き刺すだろう」

すっかりこのブログからご無沙汰していたのは、私の仕事の仕方が集中的に読書をする時期とフィールドに出る時期があって、ここしばらく読書する余裕がなかったため。久々にこちらを更新。

さて、タイトルにある「その裁縫の針は奴隷主たちの良心をちくりと突き刺すだろう」とは、イギリスの社会活動家であるセアラ・グリムケの言葉である。

Women, Art and Society

Women, Art and Society

 

19世紀後半、イギリスではデザイン改革運動の信条が定着する中で、装飾芸術の地位が向上した。それと相まって伝統的に女性の領域と考えられてきた家庭空間内で、意匠を凝らした装飾をすることへの関心が高まったとされる。装飾芸術はまた、人々を精神的に鼓舞し、社会的・倫理的な改善をもたらす手段としても注目された。

「装飾の役割は女性にふさわしい分野とされていたため、女性たちが伝統的に得意としてきたジャンルの美術を、さらに推し進めることとなった。」

エリカ・E・ハーシュラー「アートに生きた女たち」『アートに生きた女たち』図録、2013年、名古屋ボストン美術館

 

タイトルの言葉は、奴隷廃止運動を支えるために販売用の手工品を制作するように女性たちを鼓舞したのだという。

女性が制作した手芸品は、かつて無価値で安価なものとされてきたが、手芸品の価値が高まることによって女性たちの手芸品制作が経済的価値を生むようになっていった。そして、イギリスでは奴隷廃止運動の経済的根拠となっていった。

 

 

 

ワークショップ「アプリケに挑戦」

6月30日(日)に一宮市三岸節子記念美術館で開催されたワークショップを拝見しました。定員20名ということで、すでに満員御礼だったのですが、ちょうど欠席された方がいらして、急遽参加させていただけることに。

現在開催中の「宮脇綾子展」のことは先日も書きましたが、この展覧会にあわせて「アプリケに挑戦」というワークショップが企画され、宮脇綾子さんのお弟子さんたちが続けていらっしゃる「綾の会」の会員の方が教えてくださるというものでした。

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「綾の会」の岩月和子さんと加藤郁子さんは、ワークショップの間、それぞれのテーブルをゆったりとまわりながら、お声をかけてくださって、ほんの少しだけですが宮脇綾子さんにとってアップリケをする時間がどんなひとときだったのか感じられた気がしました。

アップリケといっても、今回のワークショップはたったの2時間。本当は針でたてまつりにするところを、色紙に糊で張り付ける「貼り絵」のように作っていく形式でした。ある意味では縫う技術の有無に左右されない、「布で遊ぶ」真髄だけを楽しませていただく贅沢な時間と言えるかもしれません。

やってみて感じたのは、パッチワークキルトなどでは、布の模様は限りなく「色面」に還元されるのに対して、「綾の会」では模様が単なる「色面」ではないということ。そこが大変面白く、そして難しいと感じました。簡単に言えば「柄」を生かして「絵」を作るということなのですが、それはまさに絵画でいうところのコラージュに近い感じ。布の柄は絵の具ではなく「物質」に近いのかもしれません。

 

やはりワークショップは参加してなんぼ。見学ではなく、参加させていただいて、本当によかったです。

私の「自信作」(嘘・・・)もアップしようと思いましたが、恥ずかしいのでやめておきます(笑)。関係者の皆様、楽しい時間をありがとうございました。

Tシャツの歴史を考えようとしたのだが・・・

知り合いから「日本におけるTシャツの歴史を知る方法」についてたずねられた。私にこんなことを尋ねても何も出てこないわけで・・・。

で、ネットでざっくり検索してみると、次のような流れがあるという。(あくまでTシャツ屋さんによる記事)

http://www.tshirt.co.jp/user_data/history.php

1. Tシャツの起源 Tシャツを着た英雄の登場

 アメリカ海軍の船乗り(ヒーロー)の下着、アメリカ人の憧れの存在、1930年頃にヘインズ社が「コブ・シャツ」として販売開始。

2. 映画の中のTシャツ アンダーシャツから、アウターへ

 第二次大戦後に下着からアウターへ。ジーンズとのコーディネート。労働者のユニフォーム化。1950年代からTシャツブーム。ハリウッドスターが着ることで反抗と挑戦のシンボルに。

3. 広告としてのTシャツ あらゆるメッセージがTシャツになった

 白いTシャツをキャンバスに。広告化。コミュニケーションツール。

4. 現代アートとTシャツ アートの大衆化を引導した
 ポップアートによる芸術表現。70年代、カウンターカルチャー。80年代、キース・ヘリング。90年代、村上隆などなど。
5. ファッションとTシャツ 流行にとらわれず、いつも新しい
 1960年代にモード界にTシャツ登場。流行にとらわれない自由さ。
6. 音楽とTシャツ ロックを表現した黒いカラー
 ブラックTシャツ、黒はロックの色、ツアーでのTシャツの売上。
7. 生活シーンにおけるTシャツ プリンタブルウェアとしてのTシャツ
 プリント技術とデジタル化の発展、カスタムメイドTシャツ、イベントTシャツの誕生。プリンタブルウェア。
 

これを読んでみると、なるほどTシャツプリント業というものが社会の中で「必要」な仕事だということになろうか。ただし、3~7は基本的に同じことを違うシーンで語っているわけで、Tシャツが何らかの社会的コミュニケーションのツールとなったという意味では大きな変化はない。おそらく「Tシャツの歴史」としては、圧倒的に1.2が大事なことはわかる、が、あまり突っ込んでは書かれていない。

最初からヒーローありき・・・なので、別にTシャツ以外のものをヒーローが着ていたならそれで終わってしまう話である。

他に何か資料はないものか・・・。うーむ。
    

「宮脇綾子 アプリケにつづる愛」

愛知県一宮市三岸節子記念美術館で開催中の「宮脇綾子 アプリケにつづる愛」展。

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まだ拝見していないのですが、図録の論文を書かせていただいていて、会期中に呼んでいただけることになっています。まだ準備中なのですが・・・。

私は宮脇綾子という女性はとても面白い存在だと思っていて、彼女の近代的な規範と現代的な自由さを併せ持つ点を、とても好ましく感じます。近代と現代・・・、文化はそれほど単純明快に分けられていないのですが、宮脇綾子という人は、1945年の敗戦を自分の人生の大きな区切りとして位置づけながら、創造の世界に参入していきました。

その生き様がとても素敵なのです。

 

展覧会タイトルは「アプリケにつづる愛」になっていて、これだけを見るとなんだか「アップリケ(手芸)」=「愛」みたいな典型的な図式に見えてしまい、それは一般的に言うところの家族への「愛」とか子供への「愛」とかに感じられて、いささか不満が残るわけです。

ただ、図録を読んでいただいて、展覧会もご覧いただけるとわかっていただけそうですが、宮脇綾子という女性は、手芸を時代が必要とする創造活動として、また自己実現の一つとして行っていたと私は考えています。それは「愛」がなかったことを意味するわけではなく、全ての女性たちは「愛」だけで手仕事をしているわけでないというのと同じです。

 

どこかの誰かがそれを「愛」に回収している・・・、女性が創造すること、表現することは、誰かにとってきっと驚異なのでしょう。

というわけで、ご興味のある方は、ぜひ足をお運びください。

http://s-migishi.com/tenran/main_2.html