糸・布・針を読む

自分は縫わないけど、縫ったり織ったりすることを考える・・・読書や調査の記録(基本は自分の勉強メモ)

アイヌの工芸美術への金田一の語り

アイヌ芸術 第一巻、服装篇』(金田一京助、杉山寿栄男、昭和16年)は、アイヌの人々の服飾文化を焦点化しているので、文様や刺繍など気になることが山ほど書かれている本である。1973年に復刻されている。

アイヌ芸術〈服装編〉 (1973年)

アイヌ芸術〈服装編〉 (1973年)

 

私はどんな本も、冒頭のテクストが一番面白いと思って読んでしまうのだが、たいていの場合、本を権威付けたり意義を強く語ったりする。それが悪いのではなく、その語り口に興味がある。この本の冒頭を少し長々と引用すると・・・

 

アイヌの工芸・美術の特徴は、誰の為に、何の為にという目的意識に煩わされる所無く、何時・何日までという時間的制限に煩わされる所無く、無心に彫り進んだ刃の跡、無心に縫いつけた針の運び、さながら童心に似た一図さで、ただ興の行くままに、己を忘れて浸る無我の境に、おのづと名匠の至芸を思わせる作品を産み産みするのである。そのひたむきな、美へのあこがれと執心とは、遠く実利を超えて、廃れた日本の古金具の逸品を、命にも替えて愛蔵し来た今日、内地に失われた近世金工史の数頁を補う絢爛たる名品の保存ともなったのである。」(序より)

 

つまり、アイヌの工芸はひたすら「無心」「一図」「無我の境」であって、そのことによって自然に「名匠」たり得ているという。素朴最強の論理だろうか。私はアイヌ工芸を「名匠」とすることに意義を唱えたいわけではなく、その素朴さをある種原始的なものとみなしつつ、自分たちが失ってしまったものをそこに見出そうとするオリエンタリズムにも似たまなざしが気になっている。

さらに、最後の「内地に失われた近世金工史」なんてくだりは、なんだか「内地」の歴史を補完するために(本人にその意図がなくとも)利用されてしまう言説だなあと思ったりする。

 

ただし、この本が書かれた歴史的文脈を無視しようというわけではない。ある種のアイヌ研究史における時代的必然でもあり、現代の理論からバッサリ切り捨てても意味はない。慎重に読みたいテクストである。