糸・布・針を読む

自分は縫わないけど、縫ったり織ったりすることを考える・・・読書や調査の記録(基本は自分の勉強メモ)

「アイヌ「厚司」に惹かれて」

青森市教育委員会には、多くのアイヌの布資料が所蔵されているという。まだ拝見したことがないが、その多くは旧稽古館という歴史民俗展示館にあったもので、2006年に稽古館が閉館されたため教育委員会に収められているということである。

ここの館長を務めていたは民具研究家・田中忠三郎であった。いつかこれらの資料を拝見することを願いつつ、田中忠三郎の『物には心がある。 消えゆく生活道具と作り手の思いに魅せられた人生』(アミューズ エデュテインメント、2009年)を読んでみよう。・・・どうやらamazonではひっかからないらしい。

 

まだ田中忠三郎が十代の頃の話が「アイヌ「厚司」に惹かれて」(p.10-107)に書かれている。

八戸から下北に帰った田中は、川内町で歴史的に価値がありそうな物を探し、旧家を訪ね歩いたという。そうして集まった浮世絵、銭函、お椀・・・などを地域の文化祭に展示したとき、旧家のおばあさんが「木の皮で織り上げた昔の雨合羽」を持参してくれた。その雨合羽を展示したら、それを見た人が、その雨合羽はアイヌの人々が着た「アツシ(厚司)と呼ばれるものであることを教えてくれたそうだ。

当時、青森で発掘された土器をアイヌのものだという古老が地元には多かったという。

 

こうして田中忠三郎はアイヌの文化と接触し、その後の収集へと向かうわけだが、最後の部分はとても印象的なので、引用しておこう。

「それまでは聞き流していたが、彼らがアイヌやエミシと言うときの口ぶりには、どこか蔑視が込められているように感じられた。町の人にアイヌの人たちのことを聞くと、「アイヌがー(アイヌねえ・・・)」という小バカにしたような言葉が返ってきた。」

「なぜアイヌの人達が卑下されなければならないのか。その訳を聞いても、だれも明確に答えられる者はおらず、みな曖昧に言葉を濁すばかりであった。」

 

田中忠三郎の文章はここで終わる。田中のアイヌ文化との出会いは、根拠無き(田中自身にとって)蔑視が付随する眼差しとともにであったこと、そしてその眼差しに大きな違和感を持っていたことがわかる。