「下北でおられていた「厚司」」にたどり着く」
同じく田中忠三郎の『物には心がある。 消えゆく生活道具と作り手の思いに魅せられた人生』(アミューズ エデュテインメント、2009年)より。(pp.108-111)
厚司に出会った田中忠三郎は町の古老たちにアイヌについて訪ね歩いたという。
「かつて川内川の上流に、アイヌの隠れ里があったと年寄りから聞いたことがある」という話を耳にするようになった。さらに北海道の漁場で働いていたとか、ニシンの漁場を持っていたという旧家、海運業を営んでいたという家からも厚司やアイヌの小刀が見つかった。
田中の母親の実家にも同じようなものがあったと聞き調べると、厚司や鮭の皮のブーツなども見つかった。
それらは、「川内町の川沿いの村」から嫁に来た祖母が自分で織ったのではないかと伯母から聞き、調べてみると確かにお婆さんの手作りのものだったそうだ。つまり、「アイヌの着物」が北海道だけではなく下北でも作られていた可能性がある・・・。
昭和32年春、田中は川内町宿野部という集落で「厚司を織ったことがある」女性を尋ねる。「厚司」はオヒョウの樹皮ではなく麻で織ってあった。
「おらが子供の頃、厚司の着物が村で流行ったんですよ。文様が豪華で、ぱっと目立つからでしょう。娘たちが競い合って織り上げ、盆踊りに着ていましたね」と話されたそうだが、それは明治30年代のことのようだ。
「村には、織と刺しの名手がいたんですよ。姑もそうでした」と語ったそうだ。
田中も述べているが、少なくともこれらのことから、明治30年代の下北地方にはアイヌ文様の着物を実際に織ったり刺繍したりしたことがあったことがわかる。さらに、それを晴れ着として誇らしげに着ていた・・・ということに驚く。