糸・布・針を読む

自分は縫わないけど、縫ったり織ったりすることを考える・・・読書や調査の記録(基本は自分の勉強メモ)

生命の布「ボド」―「座産」

田中忠三郎『物には心がある。 消えゆく生活道具と作り手の思いに魅せられた人生』(アミューズ エデュテインメント、2009年)より。(pp.166-169)

青森では、麻布や木綿布を継ぎ足した小布を「ボド」「ボドコ」と呼び、擦り切れて弱くなった所に継ぎ足す小布を「ボドツギ」と呼ぶのだそうだ。

この「ボド」は寝るときに敷くものだが、お産の際にも使用するのだという。当時は「座産」で、しゃがんだような姿勢で産んだ。「ボド」は代々使い古した布を刺し綴ったもので、一人の人間の誕生を見守り確認するような意味があるという。田中忠三郎はボドを「家族の絆」と表現する。(もはや今の社会でこの言葉を使う時は、こうした具体的なモノを想定できない架空のつながりのようになっているような気もするが)

 

「「ボド」は、文字通り、何世代にもわたる母親たちの血と汗と涙、そして羊水にまみれながら引き継がれてきたものである。現代医学の常識、衛生的観点からすれば、絶対に考えられないことであろう。」(p.168)

「この世に生まれてきた子供はまず「ボド」に包まれた後、その集落で病気知らずの健康で元気なお年寄りから借りてきた着物で体をくるまれる。当然、その着物にはその持ち主の長年の汗と汚れが染みついている。そこに、この年寄りのように丈夫で元気に育ってほしいという願いが込められているのだ。」(p.168)

 

当然だが繊維は金属や木製品に比べて弱くもろい。絢爛豪華な綾錦であれば保存の対象になることはあっても、日常の繊維は消耗品として消えていく運命にある。形が無くなっていくモノを継ぎ足しながら形あるものとして留めていく意識があったからこそ、「ボド」のようなものが残ったわけで、それは「残すこと」にポジティブな理由があったか、貧しさゆえにやむなく残したか、そんな状況なのだと想像できる。

その二択だったわけではないだろう。おそらく貴重な布を使い続ける中で、そこにさえもポジティブな理由を与えざるを得ない、そんな心情なのではないかと思わされる。貧しさゆえと断ずることも、家族の絆と美化することも、同じ程度に一面的だと思うのは、現代の布に困らない生活に甘んじている人間の傲慢だろうか・・・。