明治の洋裁教育―外国人による
いろいろと忘れていることも多いので、ここらで小泉和子『洋裁の時代―日本人の衣服革命』でも読み直しておくかな・・・。
- 作者: 小泉和子
- 出版社/メーカー: OM出版
- 発売日: 2004/03
- メディア: 単行本
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「明治初期には、教会所属の西洋人やお雇い外人教師の開いた洋裁教育が英学とともに行なわれ、その対象は貴族・富裕層の子女であった。」(p.23)
近代初期の女子教育においては、女性宣教師の役割やお雇い外国人の妻など、外国人女性の存在は極めて大きい。洋裁に関しても同様で、西洋の生活文化を導入する際、それを伝えたのは外国人女性たちだったと言っていいだろう。
ここで例に挙げられているのは以下の通り。
1870(明治3)年 「横浜ヘボン施療所」 キダー女史
1872(明治5)年 「京都府立新英学校及女紅場」 英国教師エヴァンス夫妻
1872(明治5)年 ドイツ人女教師サイゼン
1873(明治6)年 「時習社」 エヴァンス夫妻
1879(明治12)年 長崎出島「英和学校」
1886(明治19)年 宮城県一関「知新女学校」
とてもザックリ書かれているので、「へ~」と終わってしまいそうだが、これだけの情報でも実はかなり補足が必要かな?と思ったりする。
最初の「キダー女史」は、最初「横浜ヘボン診療所」で英語を教えていたとされるアメリカの改革派教会の宣教師である。これが後にフェリス女学院となるわけである。
偉かった女性を「○○女史」と称するけれど、彼女の名前はメアリー・エディー・キダー(Mary Eddy Kidder)。ちゃんと書いてくれるといいなーといつも思う。ちなみにキダーは多くの手紙を書き残している。
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彼女をはじめ日本に来た女性宣教師たちは、語学とともに欧米式の生活スタイルを教える教師でもあった。それが「学校」という形で残ったところばかりではないが、前述したとおり、明治初期のミッション系女学校の多くは女性宣教師たちの力でできてきた。男性の宣教師の場合には、その妻が教師として活躍した例も見られる。何度か取り上げている下記の本など。
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「京都府立新英学校及女紅場」は、現在の京都府立鴨沂高等学校。
この学校については、以下の論文がある。重久篤太郎「京都の英学--京都府女紅場・女学校(1872〜1882) (英学の導入と日本の近代化(特集))」
http://ci.nii.ac.jp/naid/40000187916
女紅場(にょこうば・じょこうば)の「女紅」は「女工」を表していて、広く女性の手仕事全般を意味する言葉である。なので「女紅場」は手仕事を中心とする女の子の学校のようなものと理解して良いだろう。京都の女紅場は華族などの裕福な女子が通う全国でも珍しい女紅場として知られているが、他の地域では「細民」と呼ばれた貧しい子女が学ぶ場であったとも言われている。
なぜ京都だけが同じ名前で異なる質の女紅場だったのかはわからないが、そのあたりすでに論文があるのかもしれない。(不勉強)
サイゼンという人物については、今のところ本当によくわからない。が、洋裁の歴史を述べる際には必ず出てくる人なので、そのうちなんとか突き止めたいとは思う。
http://akikoyamasaki.hatenablog.com/entry/2013/05/01/133230
・・・という感じで、実はこんなふうな年代記にするのは、かなり困難かつ不鮮明な明治初期の洋裁教育なのではある。が、洋裁自体「家庭内」の事柄と思われがちなため、歴史を編むのもなかなか困難なわけだ。
で、最後に面白いサイトがあって、「日本の洋裁関連学校の展開」が書かれている。出典が小泉氏の著書なので、流れがつかめる程度ではあるが、こういうことに興味がある人が他にもいるとは・・・。
http://www.mode21.com/data/history-fashion/post-27.html