糸・布・針を読む

自分は縫わないけど、縫ったり織ったりすることを考える・・・読書や調査の記録(基本は自分の勉強メモ)

ヘボン塾での洋裁教育(再検討)

小泉和子『洋裁の時代』では、「1870(明治3)年 「横浜ヘボン施療所」でキダー女史が洋裁を初めて教えた」とされている。 

洋裁の時代―日本人の衣服革命 (百の知恵双書)

洋裁の時代―日本人の衣服革命 (百の知恵双書)

で、この本の影響力は大きく、この説がどうやらネット上では一般化・普遍化しているようだ。後のフェリス女学院につながるこうした流れは、横浜という異国との窓口、居留地文化、先進性・・・などというポジティヴな文脈で一気につながりやすく、異論は出にくいのかもしれない。

しかし、小泉氏が知らない訳はないと思うのだが、キダーの前にS・R・ブラウンという女性が横浜に洋裁をもたらしている・・・ということはなぜ一切触れられていないのだろうか。

 

中山千代「婦人洋服職人制の展開」http://jairo.nii.ac.jp/0107/00002174/en (左記のサイトから誰でも読むことができる)は、1970年代に書かれた論文であるが、近代初期の洋裁受容の状況を丁寧に追っている。おそらく明治初期の状況を把握するのには、この論文が非常に大事であると思うのだ。

洋裁受容の一つの発生譚(どうやら発生譚は二つあるようだ)は次のようなものだという。

文久二年、神奈川の寺にいた宣教師ブラウン夫人は、人々からすすめられて、婦人洋服店を横浜に開くことにした。職人を探したが応募する者はなく、ようやく高島町足袋職人辰五郎を雇うことができて、横浜元町通に開店した。その後火災にあってブラウン夫妻は帰国したが、再び渡来して店を続けた。」(p.49)

アメリカ改革派の宣教師だったブラウンは、妻を連れて来日した。ブラウン夫人がどの程度洋裁ができる人物だったのかはわからないが、日本に布教に来る前の1855年、当時の夫の任地だったオワスコ・レイクで木造教会をレンガ造りに改築するための資金集めとして、「婦人裁縫協会」(Ladies' Sewing Society)なるものを組織したというので、少なくとも女性が裁縫をすることに社会的意義を感じていた人物なのだとわかる。

 

さて、ブラウン夫人から洋裁を学んだ「辰五郎」という人物だが、『横浜開港側面史』の中に「女洋服裁縫の始め」として登場するという(未確認)。

横浜開港側面史

横浜開港側面史

辰五郎はブラウン夫人が仕立屋足袋屋仲間に対して、職人一名を成仏寺に差し出せと言い、会所からの厳しいお達しだったので仕方なくくじ引きで辰五郎が行くことを決めたという。ブラウン夫人は目が悪かったようで、辰五郎に女洋服裁縫を教えて、その後18年間にわたって付き合いがあったようだ。当時の婦人洋服職は辰五郎一人だったようで、華族からも注文があったという。そして、弟子を取らなかったので一代で終わったのだそうだ。

 

中山氏の調査では、どうもブラウン夫人が開業した記録は見つからないということ。しかし、おそらく居留地内の女性たちの衣服をマネージメントし辰五郎を活躍させたのはこの人らしい。

 

前置きがとても長くなっているのだが・・・

さて、ブラウン夫人が火事にあった後帰国し、その後再来日した時に、メリー・エディー・キダーを連れてきた。キダーが1871(明治4年)からヘボン施療所で開いた女子塾で洋裁を教えたのは、まさにS・R・ブラウン夫人であるという。つまり、キダーも洋裁を教えたかもしれないが(小泉和子論を全否定するわけではない、その可能性は少し残しつつも)、日本に来た女性教師として洋裁教授という行為を積極的に推進したのはブラウンであり、ヘボン施療所でもブラウンが教えていたことがわかっているのだ。

おそらくアメリカから教育者として訪れたインテリ女性たちの多くは、多少なりとも洋裁ができたであろうと推察できる。日本女性の多くが和裁ができたのと同じように、量産型社会でない以上それは必然的にそうなのだ。だからキダーも洋裁を教えたのかもしれない。しかし、ブラウンが先に来日し辰五郎に教え、洋裁受容の基礎を作ったことは失してはならない点ではなかろうか。