糸・布・針を読む

自分は縫わないけど、縫ったり織ったりすることを考える・・・読書や調査の記録(基本は自分の勉強メモ)

明治の洋裁教育―20年代以降

洋裁の時代―日本人の衣服革命 (百の知恵双書)

洋裁の時代―日本人の衣服革命 (百の知恵双書)

明治20年代になると・・・(p.23)

日本の洋裁教育では日本人の洋裁教授者が登場してくる。それまで宣教師や女教師が伝えてきた洋裁技術は、「日本人」「男性」がリードするようになる。小泉氏は、「外国人女性」から「日本人男性」への変化を年代的変化としてストレートに捉えているように感じられるのだが、両者の系譜は明らかに異なるところが面白いのだ。

 

1887(明治20)年 沢田虎松が「婦人洋服裁縫学校」で教えたとされる。あちこちで引用されている沢田虎松の出自は、フランス公使館裁縫方の経験者ということだが、小泉氏もそのように書いているので、おそらくネット情報は小泉氏の著書が出典なのではないだろうか。それにしても恐ろしいほど小泉本の情報が流通していることに驚く・・・。すごいなあ。

小泉氏は脚注で出典を示していないので、一体どこからの情報なのかさっぱりわからない。例えば、「フランス公使館裁縫方」という肩書きは一体なんなのだろうと思ったりする。当時(明治20年には人に教えていたということは、少なくともその10年くらい前に公使館努めをしていたということ?)フランス公使館では洋裁をする日本人を雇ったのであれば、沢田という人物はそれ以前から洋裁をやっていたのだろうし、そうでなければ公使館が洋裁職人を育てたということになる。沢田は一体どこで洋裁を覚えたのだろう。

また、「婦人洋服裁縫学校」という学校も、今のところ存在が明確ではない。出典があれば確認できるのだけど・・・。

 

沢田虎松と同時期に、田中栄次郎が貴族子女を対象とした洋裁教室を開いたことも記されている。田中栄次郎については次のように脚注が付されている。

「足袋(たび)職出身で、西洋人家庭に入仕事(出向いて、その家のミシンで縫う)を経て、当初は西洋婦人向けに開業した日本人洋裁教授者の第一世代。鹿鳴館時代、その後の日本上流婦人の洋装を支え、親方として徒弟制の下で職人を育てた。」(p.23)

・・・というのも残念ながら出典はない。

またこの文章だけでは、田中栄次郎がなぜ入仕事ができるほどミシンでの洋裁技術を学び得たのかもわからないし、彼が開いたとされる洋裁教室もどのようなものだったのかがわからない。

ということで、わからないことだらけではあるが、小泉氏の論に従えば、とにかく日本人男性が裁縫教育を主導するようになったこと、また彼らは西洋人と直接接触する中で洋裁技術を習得したらしいことがわかってくる。そして、「上流」子女の教養のために洋裁を教えたということはわかるのだ。

せっかくなので、明治の洋裁教育から少しずつ脱線しながらでも、この時代の洋裁に関する文献を読み続けてみよう・・・。(長い道のりである)