糸・布・針を読む

自分は縫わないけど、縫ったり織ったりすることを考える・・・読書や調査の記録(基本は自分の勉強メモ)

明治の洋裁教育―ミシン会社

洋裁の時代―日本人の衣服革命 (百の知恵双書)

洋裁の時代―日本人の衣服革命 (百の知恵双書)

日本の洋裁文化の定着に不可欠だったのがミシンの普及だった。というのは、一つの歴史的結果だと言うこともできるが、あくまで結果論である。ミシンという機械が誕生する以前にだって西洋文化の中に衣服は存在するわけだし、今だって手縫いで洋服が縫えないわけではないし、さらにいえば、今時浴衣だってミシン縫いしちゃう人はいるわけで、洋裁=ミシンという図式は絶対ではないのだ。

とはいえ、日本に洋裁が根付いたことの一因にミシンの普及を取り上げる例は少なくない。西欧の日常服であった「洋装」の導入とすでに完成していた「ミシン」という機械は、鎖国から開国という文化史的転換期に同時に日本社会の中に入ってきた。もちろんそれは洋服を縫うための機械として認識されたわけである。

小泉和子氏もミシン会社が洋裁教育の普及に努めたという主旨のことを述べていて、特にシンガーミシンの日本進出について短く触れている。

ポイントは以下の点。

1900(明治33)年 シンガーミシン社日本進出

1906(明治36)年 「シンガーミシン裁縫女学院」開校

1908(明治38)年 秦利舞子が院長、米国式洋裁教育を実施

シンガー社は言わずと知れたアメリカの巨大ミシン会社。シンガーはこの時期にアジア各国にシェアを拡大し、当然ながら日本もそのターゲットの一つであった。1900年の日本支社設立は、その前年に外国人居留地制度が廃止されたことにより、外国人が住む場所に規制がなくなり商売がしやすくなったタイミングであり、またシンガー社の意図かどうかわからないが、まさに女子中等教育の開始期で、国家によって女性たちが縫う主体として自己確立させられていく時期であった。

日本人女性の日常服はまだまだ和装のこの時期、洋裁技術の普及とミシン購入をセット販売することで、ミシンの販路を開拓したのがシンガー社であり、その出先機関のようなものが「シンガーミシン裁縫女学院」(1906年開校)であった。

・・・というのが、割と一般的なミシンの歴史の語り口であろうか。

 

そう考えてみると面白いと思うのは、冒頭で触れたように相性や適切さは別にして、和裁だって基本的にはミシンで縫える場所は多いはず。直線縫いが多いわけだし。もちろん洗い張りの必要からほどくことを前提に・・・という論理もあるが、それは衣類管理の方法の問題で、衣服制作という点から考えれば別にミシンを使うこともできる。さらに言ってしまえば、和裁に適したミシン開発だってこの国の技術をもってしてできないわけはなかろう・・・と。

ではなぜミシン導入に洋裁が不可欠なのか・・・と考えると、和裁は手縫いでなければならない・・・という不条理な論理を支える深淵な文化が構築されてきたからだと思われるのだ。それは良い縫い手女性を讃える無数のディスクールや手縫いする女性を美しく描く図像など、手縫い女性のすばらしさや美しさは繰り返し提示されてきた。数々の「縫う女」のイメージはことごとく手縫いであり、ミシン縫いをしている女性を描く例は極めて少ない(が、あることはある)。

手縫いの行為はどうにも美意識や規範でがんじがらめで、女性の人格や人生まで規定してしまうようなものだったから、そこをクリアしないとミシンの導入は難しかったのではないだろうか。もし手縫い(和裁の身体所作としての)を早々に諦めて、ミシン縫い和服へ移行し、衣類の管理方法まで改革が進めば、結構和服は日常着として残ったのかも・・・とか思うのはあまりに単純だろうか。

 

まあ、妄想に過ぎませんが・・・。