糸・布・針を読む

自分は縫わないけど、縫ったり織ったりすることを考える・・・読書や調査の記録(基本は自分の勉強メモ)

即身仏と刺し子

徳永幾久は、『民俗服飾文化 刺し子の研究』の最初に、刺し子が生み出された風土や文化について説明している。

徳永幾久『民俗服飾文化 刺し子の研究』衣生活研究会、1989年

 

ざっくり要約すると、東北地方の飢えの惨劇の歴史、不可避の災害、自然との対峙――飢饉と餓死の繰り返しは、自然に身をまかせ生きるという悟りにも似た境地から、自分をこの世に生かし存在を形にする「実在意識」の形態化を生み出していく。例えば、自ら穀断ちして土に穴を掘り生身のまま仏になる「即身仏」は、人間の意思で死を超越してこの世に肉体を遺す、魂はその肉体をよりどころにして集まり、人は再生するという、東北人の根源にある心をロゴス化したものと考えることができる。

刺し子という手工芸も同じ精神的風土のなかで創生され、こうした生きることに関わる魂の燃焼・昇華の軌跡の文化を内包していると徳永は述べる。

 

「刺し子は、布地としては力の失せたぼろ布を重ね、刺し縫いをしながら布を圧縮、平らにし、一枚の布として再生するものであるが、ぼろ布の再生に加えて、刺す人の日々衰えゆく肉体の、残りの生命を糸と文様に託して、さまざまな文様刺しの刺し子を残したのである。」

「ただのぼろ接ぎ、繕い刺しから、次第に千人針のごとく、心を糸に託して縫い止めるという刺しが意図されたのである。」

「米も欲しい、畑も欲しい、そして健康で出世して金持になりたい、幸せになりたいという平凡でかつ平和な願いは、繕う糸の中で次第に心象化し、文様へと発展し、更にその願いは昂進し、その縫い止めた布を身体につけることによって祈願が成就すると信じたのである。衰えゆく肉体の一部をその縫糸に移して、生の再生と祈願の成就を意図したのである。」(以上、p.41)

 

 民俗学では、こうした衣服観が主流なのだろうか。門外漢なのでちょっとよくわからない。ただ、面白いと思うのは、布を縫うという行為=念を込める行為(祈り)であり、その布を身につける=成就というつながり。さらに、それは自己の肉体をモノ(布)に移す行為であり、それを身につけることで「生の再生と祈願の成就」になるということである。

自己の生きた痕跡を残したい――それは必ずしも万人に共通する意識とは言い切れない。しかし東北の「刺し子」を、もしもそう読み込むことができるのであれば(そこはまだまだ検討の余地があると思っている)、裁縫という行為は極めて哲学的な行為だと位置づけることができるはず。

 

・・・まだまだ勉強中。