糸・布・針を読む

自分は縫わないけど、縫ったり織ったりすることを考える・・・読書や調査の記録(基本は自分の勉強メモ)

テキスタイルアート・ミニアチュール3 百花百枠

しばらくブログをさぼっていたけれど、復活。

この週末に伊丹市立工芸センターで開催中の「テキスタイルアート・ミニアチュール」展を見に行ってきました。

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ミニアチュールという言葉通り、20×20×20(センチ)という小さな枠の中に、ぎゅっと凝縮されたテキスタイルアートが100点並ぶ展覧会。また若手から大御所(という言い方でいいのかなあ)まで、同じ土俵で(特別扱いなしで)展示されるという面白さ。

この展覧会、3回目になるが関西で開催されるのは今年が初めて。このあと、東京に巡回するそうです。ぜひご覧ください。

http://event.japandesign.ne.jp/2013/05/1392/

 

ちなみに、第2回と今回の図録は会場で購入できました。が、たぶん書店などで市販されていないんじゃないかと・・・。ご興味にある方は、会場で。

大正から昭和戦前の洋裁教育者たち ①

のちの洋装界の指導者となる人達は、大正から昭和戦前に名前が登場するようになる。

洋裁の時代―日本人の衣服革命 (百の知恵双書)

洋裁の時代―日本人の衣服革命 (百の知恵双書)

杉野芳子田中千代、山脇敏子、伊東茂平、並木伊三郎、原田茂、野口益栄・・・。小泉和子氏が名前を挙げているのはこの辺の人々だが、確かにこの人達の残した仕事はすごいものがある。

 

杉野芳子(1892-1978)は、ドレスメーカー女学院(通称「ドレメ」の創立者。「渡米中、洋服を着る必要に迫られて「米国式パターン」を学んだ」とされ、1926年にドレスメーカー女学院を開校した。戦時中は大変だったようだが(詳細省略)戦後は授業を再開し1949年にはデザイナー養成を開始、1964年には杉野学園女子大学を開校した。(pp.33-36)

田中千代(1906-1999)も欧米留学の経験があり、帰国後に鐘紡の主任デザイナーとして迎えられている。面白いのは昭和7年に「芦屋の自宅食堂を解放して、知り合いや近所の娘さんに洋裁を教える「お茶の間サークルさつき会」を始めていたが、熱心なさつき会の生徒に推されるかたちで、昭和一二(1937)年一〇月、「田中千代服装学園」を創立した」ところだろうか。そこでは、洋裁教育だけでなく画家や音楽家の教養講座が行われ、「見る目を養うこと」を重視したという。『田中千代服飾事典』は今でも服飾事典として有名である。なにかと便利。

新・田中千代服飾事典

新・田中千代服飾事典

世界各国の民族衣裳収集の成果も興味深い。研究熱心な女性だったようだ。

世界の民俗衣服

世界の民俗衣服

 山脇敏子については以前書いているので、そちらを参照のこと。

http://akikoyamasaki.hatenablog.com/entry/2013/03/22/104849

 

長くなりそうなので、残りの男性たちについてはまた改めて・・・。(いろいろ書いてみたいことがあるので・笑)

 

大正から昭和前期の洋裁教育

小泉和子『洋裁の時代』の「大正から昭和前期の洋裁教育」の項では、洋裁が身近になっていく社会の変化が紹介されている。この時代を戦後、洋裁学校ブームが起こる前史であるとしている。 (pp.24-25)

洋裁の時代―日本人の衣服革命 (百の知恵双書)

洋裁の時代―日本人の衣服革命 (百の知恵双書)

洋裁受容の一つの契機は、関東大震災を契機とした「簡易服」の誕生。もう一つは女学生・小学生・職業婦人の洋服への移行。いずれも、高度な技術を要しない衣服の登場によって家庭洋裁が身近になった現象と位置づけている。

 

「簡易服」とはアッパッパ、ホームドレス、ハウスドレスと呼ばれる直線断ち、直線縫いが中心の衣服。アッパッパについては中込省三「簡単服の系譜」(和洋女子大学紀要家政系編35.191-198.1995)の中で次のように述べられている。

http://ci.nii.ac.jp/els/110000472279.pdf?id=ART0000855061&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1370938489&cp=

「大正12年9月1日、関東大震災が起こり、東京、横浜などが灰塵に帰した。この災害の教訓として、改めて洋服の機能性が見直された」

「この頃、アッパッパが、突然世にあらわれた。「日本婦人洋装史」の年表には大正12年とある。アッパッパが震災後にできたのはたしかだが、9月という月を考えると、大正12年という年は疑問に思う。

 大正13年8月に国民新聞がアッパッパに関する記事をかかげているから、13年の夏以降はたしかである。」

「このアッパッパは三つの画期的な点がある。第1は簡単服でありながら、これは、従来のような、子供服ではなく、成人の女性が着た服という点である。第二は、これが既製品(と)して供給されたことである。第三には、この服は、もめんで作られ、夏の暑い時期だけに着られて、秋になるとキモノになったことである。ユカタの代わりのような感覚で着られたのであろう。」(p.195)

 

・・・という記述を読む限り、簡易服は基本的に関東大震災という天災と強く結び付けられて誕生したと認識されていることがわかるし、これが明確に「洋装」と定義されていることもわかる。もちろん過渡期的なものであるとは意識されているようだが。

面白いのは、小泉氏は家庭洋裁普及の契機として捉えているのに対して、中込氏は「既製品」として捉えている認識の差があること。また、夏限定で浴衣の代替であるという点から考えると衣生活習慣から考えるとむしろ「和服」の擬制ではないのかと思えるところである。形状から洋服と認識されがちだが、そのあたりまだまだ異論があるのかもしれない。

 

となると、家庭洋裁の普及=大正期の簡単服の流行という図式自体、とてももろいものに感じられるのだが、実際のところどうなのだろう。

 

明治の洋裁教育―ミシン会社

洋裁の時代―日本人の衣服革命 (百の知恵双書)

洋裁の時代―日本人の衣服革命 (百の知恵双書)

日本の洋裁文化の定着に不可欠だったのがミシンの普及だった。というのは、一つの歴史的結果だと言うこともできるが、あくまで結果論である。ミシンという機械が誕生する以前にだって西洋文化の中に衣服は存在するわけだし、今だって手縫いで洋服が縫えないわけではないし、さらにいえば、今時浴衣だってミシン縫いしちゃう人はいるわけで、洋裁=ミシンという図式は絶対ではないのだ。

とはいえ、日本に洋裁が根付いたことの一因にミシンの普及を取り上げる例は少なくない。西欧の日常服であった「洋装」の導入とすでに完成していた「ミシン」という機械は、鎖国から開国という文化史的転換期に同時に日本社会の中に入ってきた。もちろんそれは洋服を縫うための機械として認識されたわけである。

小泉和子氏もミシン会社が洋裁教育の普及に努めたという主旨のことを述べていて、特にシンガーミシンの日本進出について短く触れている。

ポイントは以下の点。

1900(明治33)年 シンガーミシン社日本進出

1906(明治36)年 「シンガーミシン裁縫女学院」開校

1908(明治38)年 秦利舞子が院長、米国式洋裁教育を実施

シンガー社は言わずと知れたアメリカの巨大ミシン会社。シンガーはこの時期にアジア各国にシェアを拡大し、当然ながら日本もそのターゲットの一つであった。1900年の日本支社設立は、その前年に外国人居留地制度が廃止されたことにより、外国人が住む場所に規制がなくなり商売がしやすくなったタイミングであり、またシンガー社の意図かどうかわからないが、まさに女子中等教育の開始期で、国家によって女性たちが縫う主体として自己確立させられていく時期であった。

日本人女性の日常服はまだまだ和装のこの時期、洋裁技術の普及とミシン購入をセット販売することで、ミシンの販路を開拓したのがシンガー社であり、その出先機関のようなものが「シンガーミシン裁縫女学院」(1906年開校)であった。

・・・というのが、割と一般的なミシンの歴史の語り口であろうか。

 

そう考えてみると面白いと思うのは、冒頭で触れたように相性や適切さは別にして、和裁だって基本的にはミシンで縫える場所は多いはず。直線縫いが多いわけだし。もちろん洗い張りの必要からほどくことを前提に・・・という論理もあるが、それは衣類管理の方法の問題で、衣服制作という点から考えれば別にミシンを使うこともできる。さらに言ってしまえば、和裁に適したミシン開発だってこの国の技術をもってしてできないわけはなかろう・・・と。

ではなぜミシン導入に洋裁が不可欠なのか・・・と考えると、和裁は手縫いでなければならない・・・という不条理な論理を支える深淵な文化が構築されてきたからだと思われるのだ。それは良い縫い手女性を讃える無数のディスクールや手縫いする女性を美しく描く図像など、手縫い女性のすばらしさや美しさは繰り返し提示されてきた。数々の「縫う女」のイメージはことごとく手縫いであり、ミシン縫いをしている女性を描く例は極めて少ない(が、あることはある)。

手縫いの行為はどうにも美意識や規範でがんじがらめで、女性の人格や人生まで規定してしまうようなものだったから、そこをクリアしないとミシンの導入は難しかったのではないだろうか。もし手縫い(和裁の身体所作としての)を早々に諦めて、ミシン縫い和服へ移行し、衣類の管理方法まで改革が進めば、結構和服は日常着として残ったのかも・・・とか思うのはあまりに単純だろうか。

 

まあ、妄想に過ぎませんが・・・。

明治の洋裁教育―女学校

洋裁の時代―日本人の衣服革命 (百の知恵双書)

洋裁の時代―日本人の衣服革命 (百の知恵双書)

小泉氏の論に従って、初期の外国人女性主導の洋裁教育から、その後の男性専門家による洋裁教育(だが、ほとんど明らかにされてはいない)を見てきた。

日本における洋裁の展開・普及に大きな役割を果たしたのは、高等女学校の裁縫教育がある。高等女学校とは当時の男子が通った中学校に相当する中等教育機関であるが、明治中期になってようやく女子の中等教育が本格化されていった。すでに良妻賢母主義教育が推進され、高等女学校は基本的にはその理念に沿って設立されていくわけである。

洋裁の普及といっても、初期の高等女学校の裁縫教育では、やはり洋裁より和裁が中心である。それは生活上の必要性からの比重の問題が大きいと考えて良いだろう。

 

小泉氏は以下の二つの事項を取り上げている。(p.23)

1899(明治32)年 高等女学校教授細目に「子供服・エプロン」が取り上げられる

1903(明治36)年 文部省検定裁縫科試験に「洋裁」が教員資格取得に導入される

ただし、この頃には和裁教師が洋裁も教える状態がしばらく続いていたと記す。

 

「教授細目」とは、簡単に言うと現在の学習指導案のようなもので、戦前までの旧学校教育制度において、各教科の教材を各学期・各週に配分し、何を教えるのか、どのように教えるのかを示した詳細な案である。現在ではこの言葉は使われていない。この教授細目の中で「子供服・エプロン」と書かれているのであれば、全国の高等女学校の裁縫の時間にこうした内容で授業が行われたと考えてよい。 (ただしもれなく行われていたかどうかはわからない)

 

また、「文部省検定試験」は「文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験」の略で、1884(明治17)年から1948(昭和23)年まで行われていた中等教員免許の検定試験である。前述したように高等女学校は中等教育なので、女学校の裁縫の教員になりたいと思えば、この試験を受けなければならない。教員資格は本来「高等師範」卒業者が望ましいと考えられていたわけだが、高等師範生は人数も少なく、明治期には女子の高等師範はお茶の水しかないわけだ。しかし、国が女子の中等教育を拡充しようとすれば、当然それに見合うだけの教員を確保しなければならない。他の教科に比して、ほぼ女性教員で占有されていた家事・裁縫科目は、女子学生にとっては重要な就職の場だったと言えるだろう。

ついでに、この「文検」については研究も多々ある。

「文検」の研究―文部省教員検定試験と戦前教育学

「文検」の研究―文部省教員検定試験と戦前教育学

「家事科」についてのみ特化した研究も面白い。

本題に戻ると、文検で洋裁が導入されるということは、少なくとも先々には洋裁を教えられる教員が必要になるということが意識されていたということだろう。1903年という段階では、まだ女性の平服は和服中心だったのだが、生活の中に次第に洋服文化が流入し始めていたことの証でもある。特に教授細目に「子供服・エプロン」とあったように、活動・労働という場において洋装の利便性が注目されたのではないだろうか。

 

また話題が逸れるが、この「文検」の問題そのものは非常に面白い。そして、今見てみると、今時の家庭科教員に課される技能よりはるかに高いものが求められていることがわかる。まあ、今時裁縫の高度な技能を教員に求める必然性がないということなのかもしれない。

せっかくなので、誰でもアクセス可能な資料を下に挙げておこう。大正期のものなので上記の時代とはずれるのだが、参考にはなると思う。

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/937564

国会図書館近代デジタルライブラリーはとても便利で、近代初期の文献を探す時にはまずここにないか確認してみると良いと思う。この文献は、今の「赤本」みたいなものらしく、模範解答まで書かれていてとても面白い。

 

で、こんなことを調べている間に、ものすごいミシンのレポートが書かれたブログを発見。すばらしい・・・。

http://blog.goo.ne.jp/nipponianipponn/e/e787dc693ce1f7fb40de486ac9f4696e

http://blog.goo.ne.jp/nipponianipponn/e/8a8ad6780797cd4d2812f8b3af3f8174

内容はミシンの歴史に集約されているのだが、いやもう・・・脱帽でした。

 

明治の洋裁教育―20年代以降

洋裁の時代―日本人の衣服革命 (百の知恵双書)

洋裁の時代―日本人の衣服革命 (百の知恵双書)

明治20年代になると・・・(p.23)

日本の洋裁教育では日本人の洋裁教授者が登場してくる。それまで宣教師や女教師が伝えてきた洋裁技術は、「日本人」「男性」がリードするようになる。小泉氏は、「外国人女性」から「日本人男性」への変化を年代的変化としてストレートに捉えているように感じられるのだが、両者の系譜は明らかに異なるところが面白いのだ。

 

1887(明治20)年 沢田虎松が「婦人洋服裁縫学校」で教えたとされる。あちこちで引用されている沢田虎松の出自は、フランス公使館裁縫方の経験者ということだが、小泉氏もそのように書いているので、おそらくネット情報は小泉氏の著書が出典なのではないだろうか。それにしても恐ろしいほど小泉本の情報が流通していることに驚く・・・。すごいなあ。

小泉氏は脚注で出典を示していないので、一体どこからの情報なのかさっぱりわからない。例えば、「フランス公使館裁縫方」という肩書きは一体なんなのだろうと思ったりする。当時(明治20年には人に教えていたということは、少なくともその10年くらい前に公使館努めをしていたということ?)フランス公使館では洋裁をする日本人を雇ったのであれば、沢田という人物はそれ以前から洋裁をやっていたのだろうし、そうでなければ公使館が洋裁職人を育てたということになる。沢田は一体どこで洋裁を覚えたのだろう。

また、「婦人洋服裁縫学校」という学校も、今のところ存在が明確ではない。出典があれば確認できるのだけど・・・。

 

沢田虎松と同時期に、田中栄次郎が貴族子女を対象とした洋裁教室を開いたことも記されている。田中栄次郎については次のように脚注が付されている。

「足袋(たび)職出身で、西洋人家庭に入仕事(出向いて、その家のミシンで縫う)を経て、当初は西洋婦人向けに開業した日本人洋裁教授者の第一世代。鹿鳴館時代、その後の日本上流婦人の洋装を支え、親方として徒弟制の下で職人を育てた。」(p.23)

・・・というのも残念ながら出典はない。

またこの文章だけでは、田中栄次郎がなぜ入仕事ができるほどミシンでの洋裁技術を学び得たのかもわからないし、彼が開いたとされる洋裁教室もどのようなものだったのかがわからない。

ということで、わからないことだらけではあるが、小泉氏の論に従えば、とにかく日本人男性が裁縫教育を主導するようになったこと、また彼らは西洋人と直接接触する中で洋裁技術を習得したらしいことがわかってくる。そして、「上流」子女の教養のために洋裁を教えたということはわかるのだ。

せっかくなので、明治の洋裁教育から少しずつ脱線しながらでも、この時代の洋裁に関する文献を読み続けてみよう・・・。(長い道のりである)

 

 

ヘボン塾での洋裁教育(再検討)

小泉和子『洋裁の時代』では、「1870(明治3)年 「横浜ヘボン施療所」でキダー女史が洋裁を初めて教えた」とされている。 

洋裁の時代―日本人の衣服革命 (百の知恵双書)

洋裁の時代―日本人の衣服革命 (百の知恵双書)

で、この本の影響力は大きく、この説がどうやらネット上では一般化・普遍化しているようだ。後のフェリス女学院につながるこうした流れは、横浜という異国との窓口、居留地文化、先進性・・・などというポジティヴな文脈で一気につながりやすく、異論は出にくいのかもしれない。

しかし、小泉氏が知らない訳はないと思うのだが、キダーの前にS・R・ブラウンという女性が横浜に洋裁をもたらしている・・・ということはなぜ一切触れられていないのだろうか。

 

中山千代「婦人洋服職人制の展開」http://jairo.nii.ac.jp/0107/00002174/en (左記のサイトから誰でも読むことができる)は、1970年代に書かれた論文であるが、近代初期の洋裁受容の状況を丁寧に追っている。おそらく明治初期の状況を把握するのには、この論文が非常に大事であると思うのだ。

洋裁受容の一つの発生譚(どうやら発生譚は二つあるようだ)は次のようなものだという。

文久二年、神奈川の寺にいた宣教師ブラウン夫人は、人々からすすめられて、婦人洋服店を横浜に開くことにした。職人を探したが応募する者はなく、ようやく高島町足袋職人辰五郎を雇うことができて、横浜元町通に開店した。その後火災にあってブラウン夫妻は帰国したが、再び渡来して店を続けた。」(p.49)

アメリカ改革派の宣教師だったブラウンは、妻を連れて来日した。ブラウン夫人がどの程度洋裁ができる人物だったのかはわからないが、日本に布教に来る前の1855年、当時の夫の任地だったオワスコ・レイクで木造教会をレンガ造りに改築するための資金集めとして、「婦人裁縫協会」(Ladies' Sewing Society)なるものを組織したというので、少なくとも女性が裁縫をすることに社会的意義を感じていた人物なのだとわかる。

 

さて、ブラウン夫人から洋裁を学んだ「辰五郎」という人物だが、『横浜開港側面史』の中に「女洋服裁縫の始め」として登場するという(未確認)。

横浜開港側面史

横浜開港側面史

辰五郎はブラウン夫人が仕立屋足袋屋仲間に対して、職人一名を成仏寺に差し出せと言い、会所からの厳しいお達しだったので仕方なくくじ引きで辰五郎が行くことを決めたという。ブラウン夫人は目が悪かったようで、辰五郎に女洋服裁縫を教えて、その後18年間にわたって付き合いがあったようだ。当時の婦人洋服職は辰五郎一人だったようで、華族からも注文があったという。そして、弟子を取らなかったので一代で終わったのだそうだ。

 

中山氏の調査では、どうもブラウン夫人が開業した記録は見つからないということ。しかし、おそらく居留地内の女性たちの衣服をマネージメントし辰五郎を活躍させたのはこの人らしい。

 

前置きがとても長くなっているのだが・・・

さて、ブラウン夫人が火事にあった後帰国し、その後再来日した時に、メリー・エディー・キダーを連れてきた。キダーが1871(明治4年)からヘボン施療所で開いた女子塾で洋裁を教えたのは、まさにS・R・ブラウン夫人であるという。つまり、キダーも洋裁を教えたかもしれないが(小泉和子論を全否定するわけではない、その可能性は少し残しつつも)、日本に来た女性教師として洋裁教授という行為を積極的に推進したのはブラウンであり、ヘボン施療所でもブラウンが教えていたことがわかっているのだ。

おそらくアメリカから教育者として訪れたインテリ女性たちの多くは、多少なりとも洋裁ができたであろうと推察できる。日本女性の多くが和裁ができたのと同じように、量産型社会でない以上それは必然的にそうなのだ。だからキダーも洋裁を教えたのかもしれない。しかし、ブラウンが先に来日し辰五郎に教え、洋裁受容の基礎を作ったことは失してはならない点ではなかろうか。