糸・布・針を読む

自分は縫わないけど、縫ったり織ったりすることを考える・・・読書や調査の記録(基本は自分の勉強メモ)

娘組

『明治文化史』第13巻を一通りチェックしてしまうつもりが、あちこち関心が飛んでしまって、なかなか最後まで行き着けないので、ここからまとめて・・・。 明治文化史〈第13巻〉風俗 (1979年)作者: 開国百年記念文化事業会出版社/メーカー: 原書房発売日: 19…

「アプリケ芸術」という語り

ちょうど、アップリケ作家・宮脇綾子について調べている中で、過去の図録の中に切畑健が書いた文章があったので取り上げたい。 アプリケ芸術50年?宮脇綾子遺作展 (1997年)作者: 朝日新聞社出版社/メーカー: 朝日新聞社発売日: 1997メディア: 大型本この商品…

近江家政塾の手芸展

近江家政塾は、1934(昭和9)年2月から、月曜日は手芸一般(おそらく洋裁を含む)、金曜日は料理が教えられていたようである。 1935年3月末には、生徒の成果作品を中心とした手芸展が開かれたという。内容的には、レース、刺繍、クッション、編物等が展覧さ…

近江家政塾

西洋文化の一部として手芸や洋裁が定着していく過程には、西洋人女性宣教師やミッションスクールの女性教師たち、さらには日本人のクリスチャン女性たちが深く関わってきた。このことを詳しく書いているのが川崎衿子『蒔かれた「西洋の種」』で、この中で近…

毛糸編物の普及

明治の手芸ブーム・・・もう少し詳細にみておくと以下のとおり。 『明治生活調査報告』によれば、家庭で毛糸編物を始めた早い例は、 明治11.12年、群馬県高崎市と福井県今立郡味真野村。 12~16年にかけて富山県滑川町、愛媛県宇和島、新潟県三面村。 明治も…

明治の手芸ブーム

今は手芸ブームだと言われている。1950~60年代にも、すごい手芸ブームがあった。それぞれの時代に手芸がブームになる社会的背景があるわけで、それを考えていくと人が手仕事に執着する意味などがわかるような気がする。 文献によれば、どうやら明治時代にも…

居留地の女性たち

開港と同時に外国人が日本に住むようになった明治初頭、かなり早い時期から外国人の名前は新聞などにも書かれるようになっていた。外国人男性の場合には、比較的公的な役職や仕事が残されている場合が多いが、実は外国人女性の場合、それが誰なのか知ること…

アンギン

今、編み物というと棒針やかぎ針で毛糸を編むことをいうのが一般的だが、これは当然毛糸文化がなかった日本で伝統的に行われてきたものではない。明治期に新しく日本にもたらされた外来文化の一つである。 だが日本でも布地を織るのではなく編んで作るという…

ミシン教育の導入

今ではどこの小学校の家庭科室にも必ずあるミシン。私が小学生の時代にはすでに電動ミシンが揃っていたが、家庭科室の片隅には足踏みミシンがあったのを覚えている。 手縫いが当たり前だった時代、ミシンという舶来かつ高価な機械を教育に導入することはなか…

ミシンの導入

1868年2月24日の『中外新聞』(1868年(慶応4),幕臣柳河春三により発行された日本最初の邦字新聞。四五号で発禁。69年(明治2)再刊されたが,翌年柳河の死により廃刊。 )には、次のような記事があるという。私の出典はあくまで『明治文化史』第12巻であ…

「洋裁」の最初の記録

『明治文化史』第12巻の「洋裁」の項目もなかなか面白いが、どうも「洋裁」=ミシンというこだわりを感じる文章である。 明治文化史〈第12巻〉生活篇 (1955年)作者: 開国百年記念文化事業会出版社/メーカー: 洋々社発売日: 1955メディア: ?この商品を含むブ…

明治の裁縫―和裁

『明治文化史』は言わずと知れた明治史研究の大著で、私の関心は大抵第12巻「生活」に収録されている。 明治文化史〈第12巻〉生活篇 (1955年)作者: 開国百年記念文化事業会出版社/メーカー: 洋々社発売日: 1955メディア: ?この商品を含むブログを見る 「和裁…

『袋物細工の枝折』

明治42年に共立女子職業学校で編纂された袋物細工の教科書。(教科書として使用されたかどうかは微妙で一般向けと考えた方が良さそう) この時期の共立女子職業学校の副校長は宮川保全(みやかわやすのり)で、鳩山春子らと共にこの学校を設立した一人。彼が…

お針屋

徳永幾久は近世の裁縫の教育機関として「お針屋」を紹介している。それがなかなか面白い。 徳永幾久『民俗服飾文化 刺し子の研究』衣生活研究会、1989年 当時、寺子屋の経営者は武士が多かったそうだが、女子が必要とする礼儀作法や裁縫は母親たちが教えてい…

刺し子技術の一丁前

かつては刺し子の技術にも「一丁前」という基準があったという。とても興味深い。 徳永幾久『民俗服飾文化 刺し子の研究』衣生活研究会、1989年 東北各地で江戸時代から続いてきた藩政の影響で、地域ごとに女の一丁前の内容に変化があるそうだ。刺し子の技術…

即身仏と刺し子

徳永幾久は、『民俗服飾文化 刺し子の研究』の最初に、刺し子が生み出された風土や文化について説明している。 徳永幾久『民俗服飾文化 刺し子の研究』衣生活研究会、1989年 ざっくり要約すると、東北地方の飢えの惨劇の歴史、不可避の災害、自然との対峙――…

徳永幾久の刺し子研究

服飾研究者の徳永幾久は山形出身で、刺し子をはじめとする民俗的な手仕事について重厚な研究を残している。圧巻は『民俗服飾文化 刺し子の研究』であろう。 徳永幾久『民俗服飾文化 刺し子の研究』衣生活研究会、1989年 この本の冒頭に彼女の印象的なテクス…

「復元」の意味

先だって「アイヌ・アート」展で川村則子さんのトークをお聞きしたのだが、その時にアイヌ女性の手仕事で大切にされていることの一つに「復元」という行為があることを知った。川村さんの作品は、絵画的でモダンな作品が多いように感じられたが、それでも古…

抵抗の文様

なぜアイヌの女性たちは、アイヌ文様刺繍(=イカラカラ)を衣裳の襟や袖口、裾、背中などに施し、また機織器や糸巻きにまで文様を施して魔神の侵入を警戒したのだろう。 『アイヌ文様刺繍のこころ』の中で、次のように書かれている。 アイヌ文様刺繍のここ…

魔除けとしてのアイヌ刺繍文様

縫うことには精神性が深く関わっている。もちろん全ての縫製に魂が宿っているなどということは現代社会では難しいのだが、少なくとも女性たちが縫い物をする姿の中に、何らかの思いを読み込もうとする傾向はずっとあるし、女性たちも自身が縫うことに思いを…

チカップ美恵子さんの刺繍

アイヌ民族文化、特にアイヌの女性たちの手仕事について積極的に論じてきた一人にチカップ美恵子さんがいる。1948年釧路生まれで、2010年に亡くなられた。 チカップさんはお母さんからアイヌの刺繍の手ほどきを受け、そこから現代的表現へと展開された方であ…

英国メイドの気晴らし

村上リコ『英国メイドの日常』では、メイドの気晴らしについても触れている。 「メイドたちが仕事のあいまにひとりでできる気晴らしといえば、縫い物や編み物や読書である。キッチンに書棚を置いて、読ませたいレシピ本、実用書、ためになる啓蒙書などを入れ…

スカラリーメイド

村上リコ『英国メイドの日常』(河出書房新社、2011年)を読んでいて、いくつか縫い物に関する記述があって、なかなか興味深かった。 図説 英国メイドの日常 (ふくろうの本/世界の文化)作者: 村上リコ出版社/メーカー: 河出書房新社発売日: 2011/04/16メデ…

「お母さんのお手製」

宇山あゆみが語ると、なんともノスタルジックなのだが、これは一般的認識として多くの人の共感を得るだろうと思うテクストである。 「昔のお母さんたちは忙しい育児の合間に、可愛いこども服をたくさん縫ってくれました。その頃の既製品はボタンがとれやすか…

昭和30-40年代のアップリケ

子ども向けアップリケは今もたくさん残っているけれど、おそらく全盛期は昭和30-40年代だろう。 宇山あゆみは『夢のこども洋品店1960-70年代の子供服アルバム』の中で次のように言っている。 「昭和30年代中頃から40年代中頃に大流行した可愛いアップリケ。…

心の糧としてのアプリケ

宮脇綾子のアプリケ観のかなり核心の部分は次のような点ではないだろうか。 「アプリケは、手先でするだけのものでなく、貴女の生活に結びつけていただきたいと思います。というのは、このアプリケをすることによって、心が豊かになり、生活にうるおいが、と…

アップリケの心がまえ

日本では近代以降、「手芸」をすることは単なる技術の習得ではなく、精神の陶冶(「陶冶」は人間形成の古い表現と考えていい)を目的としてきた。だから、常に手芸をする場合には、お行儀や型が重視されて、出来上がった作品は作り手の人となりが現れるとも…

アプリケとは(宮脇綾子の定義)

宮脇綾子は、自身の表現技法であるアプリケについて次のように解説している。 「Applique 刺繍の一種。布地の上に、小布を好みの模様にはりつけて、輪郭を刺繍でとめる簡単な手芸で、パッチワークpatchworkとも、布置刺繍ともよばれている。アプリケは、糸だ…

「針々と、たんたんと」

2月末に訪れた国際芸術センター青森(ACAC)、呉夏枝×青森市所蔵作品展「針々と、たんたんと」のカタログを送っていただいた。 この展覧会は、青森市教育委員会所蔵の民俗資料、特に布資料と、アーティストの呉夏枝さんが「向き合い」ながら展示を行っていく…

市井の一職人

もう一つ、宮脇綾子の言葉から。 「あまから手帖」の編集長だった重森守が次のように回想している。(p.12-13) 「「私のアプリケを芸術だと思ったことがない」といつも言っておられた。「でも、手芸家といわれるのもイヤ。市井の一職人で通したいですね」ー…